徳永商店社長ののブログ

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2010年10月

捨てる決断、アップルの教訓

今朝の日経新聞のコラムにアップル社に関する記事がありましたので、一部紹介させていただきます。日本経済新聞記事 「一目均衡」 (編集委員 西條郁夫氏)より

apple


捨てる決断、アップルの教訓

21世紀の最初の10年が過ぎつつあるが、この間最も輝いた企業はどこだろう。
独断と偏見で選ぶなら、経営危機の瀬戸際から「株式時価総額でIT(情報技術)企業の世界一」
にまで復活した米アップルの名を挙げたい。

十数年前のアップルは内紛や商品戦略の失敗が続き、お粗末の一言。
旗艦「マッキントッシュ」は昔からのファンを引き留めるのが精いっぱいで、
IT革命が生んだ新規のユーザーは競合のマイクロソフト陣営に持って行かれた。
今はやりの言葉を使えば、世界の大勢から孤立し、仲間内で盛り上がる
「ガラパゴス商品」の色彩が強かった。

創業メンバーだったスティーブ・ジョブズ最高経営責任者(CEO)が1997年に
アップルに復帰して真っ先に手掛けた仕事は何だったか、アップル全盛の今しか
しらない若い読者にとっては驚きだろう。
ライバルであり、旧知の仲でもあるマイクロソフトのビル・ゲイツ会長(当時)に、
二つのことを頼み込んだ。

一つは「ワード」などマイクロソフトの応用ソフトをアップル製品でも
動かせるように改良してほしいという依頼、もう一つは資金援助(出資)
だ。幸いこの二つの頼みをゲイツ氏は応諾し、アップルは幸うじて命脈をつないだ。

そこまで追いつめられたアップルが復活できた原動力は何か。
大きかったのは「捨てる決断」である。

同社は2001年に従来の基本ソフト(OS)に見切りをつけ、「OS X(テン)」
と呼ぶ新OSに切り替えた。
コンピューターの頭脳であるOSの全面刷新は半端なことではない。
OSがバージョンアップではなく新規のモノに切り替われば、
以前のOSに準拠した応用ソフトや使い手の熟練は水泡に帰す。
古くからのアップルファンには抵抗もあったが、ジョブス氏の決断で押し切った。

その理由は、多機能端末「iPad(アイパッド)」をいじってみれば、すぐ分かる。
iPadの使い勝手はパソコンというよりテレビに近い感覚で、電源を入れると
ほぼ同時に画面が立ち上がる。競合ソフトに比べて、アップルのOSが
それだけ「軽い」からだ。

旧OSにしがみついたままでは、アップルを支える商品競争力は生まれず、
今日の繁栄はなかっただろう。「捨てる決断」が功を奏したのである。

以下省略いたします。

下の写真は記念すべき最初の手作りパソコン APPLE 1
自分たちで設計した電子回路をベニアの箱に納め組みあげたもの。
アップルコンピュターの原点というべき製品です。
アップルが30数年後にiPad や iPodなどの製品を生み出す会社になろうとは、
誰も想像していませんでした。

apple1

編集委員の西條氏が綴っているように、
ジョブズ氏はコンピュータのソフトとハードの両方で、
大胆な取捨選択を行ってきました。
現在採用している製品に発展の余地を見いだせなくなった時、
現在の製品をはるかに凌ぐ有益な技術が開発された時、
どちらの技術が将来の可能性があるのかを即座に判断してきました。

例えば、パソコンの頭脳であるCPU(中央演算処理装置)をintel製に、
基本ソフト(OS)をunixベース(原型はnext step)の全く新しいものに
変更しました。
また、初代iMacからフロッピーディスクの標準装備を止め、
パソコンと周辺機器をつなぐケーブルに業界で初めてUSBを採用したりと
常に時代の先を見据えて、製品の開発を行ってきました。
アップルが先進性を重視するあまり、ユーザーは製品の互換性の問題に
何度鳴かされてきたことでしょうか(涙)

既存ユーザーの批判にも関わらず、ジョブズ氏は
パソコンの製品の未来の形を想像しながら、良いもの、必要と判断したものは
多少難があったとしても積極的に取り入れてきました。

試行錯誤、成功と失敗を繰り返しながら、
アップルは歴史上稀に見る復活を成し遂げることに成功しました。

次回はマックの長期ユーザーとしての視点でアップル復活劇について、
話してみたいと思います。

つづく

apple old logo mark

30数年前にデザインされた初期のアップルロゴマーク
6色のカラーが美しいです。
 

投稿日時:2010.10.28(木) 08:54:15|投稿者:tokunaga

三方よしの理念

「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の経営理念で、
江戸時代に商いを展開した近江商人(現在の滋賀県)。

成熟した日本の社会の中で商いを伸ばして行くためには、
この近江商人の経営理念が、とても重要な意味を持つことに気づきました。

絶対的な物不足の時代には、市場が求めている商品を作りさえすれば
それほど苦労することなく商品は売れました。

しかし現在の日本の様に、モノが隅々まで行き渡り、
人々のモノに対する欲求の度合いや価値観が多様化する中で、
お客様に選んでいただける商品を作って行くには
大変な時代になったと感じます。

商いに王道があるとすれば、
それは「三方よし」の精神ではないでしょうか。

商品を売っている私にもよいけれど、それを買ってくれる人にもよいし、
また社会の役にも立っている。

この理念に当てはまる物やサービスを継続して提供できる企業は
時代が変わっても社会から必要とされ続けることでしょう。

成熟した木材業界の中で、私たちが生き残って行くためには、
「三方よし」の理念に合致した商品を社会に提供できるかどうか
が重要な鍵になります。

その答えはまだ霧の中に隠れてはっきりと見えていませんが、
進むべき方向性は見定めたいと思います。


以下 近江商人についての説明文を(財)滋賀県産業支援プラザのHPから一部抜粋させていただきました。

取引においては、当事者の売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならないとう意味での、売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」の理念は、近江商人の経営理念に由来する。

国名を近江という現在の滋賀県に属する地域からは、江戸時代から明治期にわたって、近江商人と呼ばれる多くの大商人が次々に出現した。彼らは近江に本宅を構え、行商の初期には上方の商品と地方物産の有無を通じる持下(もちくだ)り商いに従事し、資産ができると要地に複数の出店を築き、産物廻しという持下り商いの大規模化した商法を出店間で実施して、さらに大きな富を蓄積した。近江商人という人々は、地元の近江を活動の場とするのではなく、近江国外で活躍し、原材料(地方物産)の移入と完成品(上方商品)の移出を手がけ、現在の日本の経済と経営を先取りするような先進的な商人達であった。

江国外での他国行商を本務とした近江商人は、行商先の人々の間に信用という目に見えない財産を築いていかなければならなかった。持下り商いは、一回きりの売込みではなく、自分が見込んだ国や地域へ毎年出かけ、地縁や血縁もないところに得意先を開拓し、地盤を広げていかなければならないのである。

境を行商してまわり、異国に開いた出店を発展させようとする近江商人にとっては、もともと何のゆかりもなかった人々から信頼を得ることが肝心であった。その他国商いのための心構えを説いた近江商人の教えが、現代では「三方よし」という言葉に集約して表現されるようになったのである。 「三方よし」の直接の原典となったのは、宝暦4(1754)年に70歳となった麻布商の中村治兵衛宗岸(そうがん)が15歳の養嗣子に認めた書置(かきおき)のなかの次の一節である。

たとへ他国へ商内に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い、高利望み申さずとかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切におもふべく候、それにては心安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心に致され候て、その国々へ入る時に、右の通りに心ざしをおこし申さるべく候事、第一に候


の条文は以下のように読み解くことができる。
他国へ持下り商いに出かけた場合は、持参した商品に自信をもって、その国のすべての人々に気持よく使ってもらうようにと心がけ、その取引が人々の役に立つことをひたすら願い、損得はその結果次第であると思い定めて、自分の利益だけを考えて一挙に高利を望むようなことをせず、なによりも行商先の人々の立場を尊重することを第一に心がけるべき
 である。欲心を抑え、心身ともに健康に恵まれるためには、日頃から神仏への信心を厚くしておくことが大切である。

「三方よし」の原典となったこの条文は、明治になってから井上政共編述『近江商人』のなかで、「他国へ行商するも、総て我事のみと思わず、その国一切の人を大切にして、私利を貪(むさぼ)ることなかれ、神仏のことは常に忘れざるよう致すべし」と、簡潔に要約されている。まさに「三方よし」の精神以上に、近江商人の到達した普遍的経営精神を示すものはないといってもよいであろう。」

(三方よしの理念 出典 財団法人滋賀県産業支援プラザホームページ )

投稿日時:2010.10.05(火) 22:10:00|投稿者:tokunaga

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