徳永商店は、確かな製材技術でお客様のニーズに的確に応える木材製品をお届けします。
おもしろい記事を見つけましたので、転載します。
トイレ掃除と世帯年収に因果関係あり?
トイレをきれいにしている人と そうでない人とでは、世帯年収に約90万円の差があるとの
アンケート結果がでました。この結果についてみなさんはどう思われますか?
私も昨年から会社のトイレ掃除を担当するようになり、恥ずかしながら、この年になって
トイレ掃除の意味と効果が分かるようになりました。
トイレ掃除の一番の効果は、トイレを磨く人の心もきれいにするということではないでしょうか。
また、トイレをきれいしたいと思う気持ちが自然に芽生えてくるようになると、
自分は何でもできると、自信がもてるようになります。不思議です。
人間が生きる上で、最も大切なのは「心のもちかた・考え方」です。
トイレ掃除を一生懸命行うことが心を磨き、心に磨きがかかれば、徳も高くなる。
そして、周りからの信頼も高くなり、責任のある仕事を任せてもらえるようになる。
結果としてそれが給料に反映される。簡単に言うとそういうことではないでしょうか。
トイレ掃除とともに、心も磨いてみませんか?
以下転載記事です。
宮崎県西都市に本店を構える老舗の和菓子店「水野屋」さん。
おいしい和菓子を作る有名なお店です。
その水野屋さんの包装紙について紹介したいと思います。
ふつう包装紙は商品を包む(飾る)ことを目的として、作られていますので、
包装紙として利用された後は、そのまま捨てられてしまうことがほとんどだと思います。
そこで水野屋さんは、包装紙に一工夫こらして再利用してもらおうと考えたのだと思います。
下の写真がその包装紙です。
1 包装紙の表面
2 包装紙の裏面
3 展開図と完成品(しわを伸ばせば、きれいな封筒ができあがります)
包装紙を裏返すと、封筒の絵(展開図)が印刷されています。
封筒の形に印刷されている線をはさみで切り取り、糊付けすると封筒ができあがります。
包装紙を封筒として再利用するためには、包装紙の裏面の印刷代や、紙質を高めるなどのコストアップが生じます。それにもかかわらず、包装紙の細部にまで気を配るところに、水野屋さんの経営理念が垣間みられる気がします。このすばらしいアイデアを実行された(創造と実行)水野屋さんにエールを贈りたくなりました。
話はかわりますが、私が子供の頃、母は頂き物などの包装紙をきれいに剥がしてとっておき、
何かの包装や装飾の紙として再利用していました。また、新聞の折り込みチラシ(裏が白紙)をメモ用紙の大きさに切って使っていました。現在のように物が溢れている時代ではありませんでしたから、一つ一つのものを大事に、丁寧に扱っていました。
昔の日本人には、ふだんの生活の中に物を大切にする(もったいない)心と知恵が、当たり前のように根付いていました。これぞ日本人の美徳ではないでしょうか。
今年もあと残り3週間になりました。走馬灯のように一日が過ぎて行きます。
さて、本日のたかじん「そこまで言って委員会」(TV番組)のテーマは、
今年の新聞各社の社説とコラムから大賞を選ぶというものでした。
そこで、私も購読している日本経済新聞のコラム「春秋」欄から特に印象に残った記事を
選んで紹介したいと思います。
私は印象に残った記事を切り取って、手帳に挟み、時々読み返すことにしています。
これは、今年切り取った5つのコラムの中の一つです。
日本経済新聞 『春秋』
松下幸之助さんの大番頭といえば、高橋荒太朗さんの名前が挙がる。
朝日乾電池という会社で経理の制度をつくった実績を見込まれて、
松下電器産業(現パナソニック)に転じた。が、「経営の神様」が買った点は
ほかにもあったろう。
需要が減り始めた商品から伸びている製品へ、生産を機敏に切り替えたことだ。
1929年、25歳で高橋さんが朝日乾電池の常務に抜てきされた時、主力商品はラジオ用電池。
だが技術革新でラジオに電池がいらなくなった。そこで需要増が見込める自転車ランプ用電池に
的を絞った。変化を読み会社を改造した。
経営改革を高橋さんが始めた29年は世界恐慌が起きた年だ。
不況が深刻なほど内向きになり、コスト削減でしのごうとしがち。
新しい収益源を生んだ高橋さんの手腕を松下幸之助さんは評価したに違いない。
リーマン・ショック後の不況から日本は抜け出せていない。成長の道筋を、
企業はつけているだろうか。
高橋さんは神戸の商店で働きながら簿記を学んだ。朝日乾電池の改革では工場に常駐して
従業員を指揮した。ラジオ用電池の生産が減っていく様子を工場で目にし、
製品を変える決意は強まったろう。現場には発見がある。もっと現場に出よ。
成長戦略を描ききれていない経営者に、そう呼びかけているようにみえる。
今朝の日経新聞のコラムにアップル社に関する記事がありましたので、一部紹介させていただきます。日本経済新聞記事 「一目均衡」 (編集委員 西條郁夫氏)より
「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の経営理念で、
江戸時代に商いを展開した近江商人(現在の滋賀県)。
成熟した日本の社会の中で商いを伸ばして行くためには、
この近江商人の経営理念が、とても重要な意味を持つことに気づきました。
絶対的な物不足の時代には、市場が求めている商品を作りさえすれば
それほど苦労することなく商品は売れました。
しかし現在の日本の様に、モノが隅々まで行き渡り、
人々のモノに対する欲求の度合いや価値観が多様化する中で、
お客様に選んでいただける商品を作って行くには
大変な時代になったと感じます。
商いに王道があるとすれば、
それは「三方よし」の精神ではないでしょうか。
商品を売っている私にもよいけれど、それを買ってくれる人にもよいし、
また社会の役にも立っている。
この理念に当てはまる物やサービスを継続して提供できる企業は
時代が変わっても社会から必要とされ続けることでしょう。
成熟した木材業界の中で、私たちが生き残って行くためには、
「三方よし」の理念に合致した商品を社会に提供できるかどうか
が重要な鍵になります。
その答えはまだ霧の中に隠れてはっきりと見えていませんが、
進むべき方向性は見定めたいと思います。
以下 近江商人についての説明文を(財)滋賀県産業支援プラザのHPから一部抜粋させていただきました。
「商取引においては、当事者の売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならないとう意味での、売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」の理念は、近江商人の経営理念に由来する。
旧国名を近江という現在の滋賀県に属する地域からは、江戸時代から明治期にわたって、近江商人と呼ばれる多くの大商人が次々に出現した。彼らは近江に本宅を構え、行商の初期には上方の商品と地方物産の有無を通じる持下(もちくだ)り商いに従事し、資産ができると要地に複数の出店を築き、産物廻しという持下り商いの大規模化した商法を出店間で実施して、さらに大きな富を蓄積した。近江商人という人々は、地元の近江を活動の場とするのではなく、近江国外で活躍し、原材料(地方物産)の移入と完成品(上方商品)の移出を手がけ、現在の日本の経済と経営を先取りするような先進的な商人達であった。
近江国外での他国行商を本務とした近江商人は、行商先の人々の間に信用という目に見えない財産を築いていかなければならなかった。持下り商いは、一回きりの売込みではなく、自分が見込んだ国や地域へ毎年出かけ、地縁や血縁もないところに得意先を開拓し、地盤を広げていかなければならないのである。
異境を行商してまわり、異国に開いた出店を発展させようとする近江商人にとっては、もともと何のゆかりもなかった人々から信頼を得ることが肝心であった。その他国商いのための心構えを説いた近江商人の教えが、現代では「三方よし」という言葉に集約して表現されるようになったのである。 「三方よし」の直接の原典となったのは、宝暦4(1754)年に70歳となった麻布商の中村治兵衛宗岸(そうがん)が15歳の養嗣子に認めた書置(かきおき)のなかの次の一節である。
たとへ他国へ商内に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い、高利望み申さずとかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切におもふべく候、それにては心安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心に致され候て、その国々へ入る時に、右の通りに心ざしをおこし申さるべく候事、第一に候
この条文は以下のように読み解くことができる。
他国へ持下り商いに出かけた場合は、持参した商品に自信をもって、その国のすべての人々に気持よく使ってもらうようにと心がけ、その取引が人々の役に立つことをひたすら願い、損得はその結果次第であると思い定めて、自分の利益だけを考えて一挙に高利を望むようなことをせず、なによりも行商先の人々の立場を尊重することを第一に心がけるべき である。欲心を抑え、心身ともに健康に恵まれるためには、日頃から神仏への信心を厚くしておくことが大切である。
「三方よし」の原典となったこの条文は、明治になってから井上政共編述『近江商人』のなかで、「他国へ行商するも、総て我事のみと思わず、その国一切の人を大切にして、私利を貪(むさぼ)ることなかれ、神仏のことは常に忘れざるよう致すべし」と、簡潔に要約されている。まさに「三方よし」の精神以上に、近江商人の到達した普遍的経営精神を示すものはないといってもよいであろう。」
(三方よしの理念 出典 財団法人滋賀県産業支援プラザホームページ )